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2016年6月7日火曜日

勝ち負けと自分、結果との向き合い方。競争は自分を知るひとつの場所




勝ち負けだけではない競い合い


グローバル化は競争の激化であることを、改めてこの本で感じた。国内にしかいなかった競争相手が、グローバル化で全世界にいることとなる。

ところが最近、それとは逆行した競争の概念が生じているというのだが本当だろうか。競争の末に結果が出るが、その結果を表に出さないようにしている部分があるという。

子どもの多くはよく競う。ただの順番待ち、速く走ることやドリブルをすること、多くのことで一番になりたがる。その結果、勝って喜ぶ、負けて悔しがる、負けて諦める、人によって様々な感情が現れる。結果が、自分に教えてくれることはよくあること。

競い合いの結果、勝敗が生まれる。競い合った末に負けた、だから嫌い。競い合った末に負けた、でも好き。負けたから、やめよう。負けたから、次はこう頑張ろう。

負けたときには特に、多くのことを学ぶことになる。ただし、ネガティブな感情が生まれやすい。負けた当事者を支えてあげるべきだろうし、勝者は敗者への思いやりを忘れてはならない。だからこそ、結果は隠してはいけないと思う。敗北が表に出ることは辛いこともあるけれど、その敗北との向き合い方をもっと知っていくべきだと思う。そして、勝利との向き合いかたも、もっと知るべきだ。


負けることは惨めではなく自分を知ること


人々は、もともと競うことが好きなのだと思う。競争が必要な社会に私たちがいることが証拠なのではないだろうか。何でどう競うのか、それは非常に重要。様々な勝利や敗北の経験が、私たちが競う舞台を知ることになる。

結局は、競うことは、競うことではなくて、自分を出すことだと思う。自分を出したことで出た結果は、どんな結果であっても満足するべきだ。それが良いものでも悪いものでも。自分に向いていると思うなら、それを続ければいいし、そうでなければやめればいい。また新しいことに挑戦する。

子どもって自然とこういうことをやっていると思う。そこに価値観を加えているのは大人である。競いたくない分野で競わせてしまっていたり、競いたい分野で競わせなかったり…、そういう子どもを見かけることは多く、彼らの意志力は弱まってしまっている。


競争とリスクの存在


“日本だと競争力を付けさせようと思ったら、政府は補助を与えて強くする。アメリカで競争力をつけさせる方法は、ただひとつ。競争させる。”

“自らをリスクのなかに置くことによって初めて自分たちの社会が変われる。”

グローバル化についてわかりやすい本だった。フットボールも私たちの生活も既にグローバル化していることって、日本にいるだけではなかなか気付けない。